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昭和11 (1936) 年 夏

清水三郎高橋嘉一郎
金子一布<主>鈴木 裕
吉田源太郎宮田 俊
国広秀雄河合嘉高
古沼頼三吉野栄一
会田雅衛垂沢浩一
松井敏夫平野三郎
校長安達成之
部長 
監督 岸 恒雄


第一回戦 7月25日 敷島球場

開始 8:10am、終了11:40am

チーム
沼田中
高崎商

古豪高商敗退して、今大会の大穴沼中の闘志に凱歌
◎高商は劈頭、宮崎の左越え三塁打と四球で早くも2点を先制、二回にもまた大島の左翼線二塁打し続く清川の安打で1点を加え3点をリードしたが、沼中は高商、網島投手の好投に抑えられて三回までに1安打に討ちとられ得点できなかったが、四回、会田の左前安打と四球、そして敵失を得て1点。次に六回、会田三塁強襲安打に出て敵失をつかんで2点を返し、4−3と試合を白熱化させた。沼中七回に至り、2四球と安打で無死満塁のチャンスを迎えバント攻めと出たが、利あらず二死となった。鈴木の左前打で2点を加え、逆に1点をリード。八回高商飯野二塁ゴロ失に出て三塁まで盗塁とし、更にホームスチールに成功、同点。しかし沼中九回の攻撃は松井二ゴロ失に生き二死後、鈴木の三ゴロを一塁へ暴投して松井生還、1点をリードし、高商の反撃を抑えて一勝戦に凱歌。


第二回戦 7月26日 敷島球場


チーム (七回コールド)
沼田中 清水−金子
高崎中 13三輸−石川

◎高中は一回、沼中守備軍の内外野の凡失を逃さず一挙4点を入れて試合を楽にし、一方三輸投手は崩れそうで崩れず、加えて味方野手の好守に五回迄に無安打無得点に終わる。一方沼中清水投手も曲球も好く鋭いシュートもよく決まり、高中打線を衡いていたが、如何せん味方野手の練習不足から連失を重ね劈頭4点を失い、六回にも4長短打と四球失策で6点を失った。
 沼田の唯一の得点は六回二死後、清水左翼線二塁打、会田の右前打で、二死一・三塁続く鈴木の左中間二塁打で2者が帰って闘志を示した。






清水

石川
 





鈴木

高橋

廣田

武井
【沼田中學】 【高崎中學】
(三)古沼(遊)小柏
(左)松井(二)木暮
(捕)金子(捕)石川
(投)清水(右)廣田
(遊)会田(中)大澤
(右)鈴木(投)三輸
(一)吉田(一)武井
(二)國廣(三)
(中)高橋(左)半田


















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野球部の河合嘉高氏が「沼高七〇年史」で、当時の安達成之校長について寄稿されている。
          安達校長のこと
昭十四、第二十六回卒 河合 嘉高   
 ここ十数年来、元旦を迎えるたびごとに、ある一つの期待に胸をふくらませている。それは楽しみ八分に不安が二分位の割り合いで混然一体となったものである。
 元日の朝祝いも終えてやがて十時頃になると郵便屋さんが年賀状を届けてくれる、子どもの様に胸をワクワクさせながら、年賀状の束のなかから真先きにある一つの物を探し求める。目的物をみつける。なんと云ってよいかわからないが、ホッと「いのち」の安らぎを覚えるといった方がよいかも知れない。こんな気持を抱かせる安達成之先生が、私の沼中生活五年間を通じての校長先生であった。一年生のある日、多分晩秋の頃ではなかったかと思う。校庭(現在の庭球コート)いっぱいの落葉を、私たち一年乙組が清掃していたことがあった。その当時(昭和初期)は、一年生といっても高等小学校卒業の者や、或いは高等小学校一年修了の者や、また尋常小学校五年修了だけで入学した者と年令的にも能力的にも異質の者が「一年生」という一つの枠の中にはめこまれていたので、身心の発達段階ではずい分差があった。従って、庭掃除なんか真面目にやれるかといった気分の生徒がいたとしてもそれ程驚くほどのことでもないが、ともかくも最初は十五、六人近くいた仲間はいつの間にか散ってしまい、曲がりなりにも竹箒をもって落葉をはき集めていたのは、たまたま私一人だけになってしまった。一人になってからどのくらい時間が経ったのかわからなかったが突然「河合君、ご苦労様、だいぶ綺れいになりましたね。」とうしろから声をかけた人がいた。温顔をニコニコさせた校長先生である。入学してから半年以上になったとしても、偉い校長先生が、よくも一年生の私の名前を知っていたものだと、嬉しかったり、おどろいたりしたのであるが、この時の校長先生の言葉が私に人間としての生き方を教えてくれた。余談ではあるが現在の私は生れた村で、かけ出しの社教主事として青少年の方々の仲間に入れていただいているが、時にふれ折りにふれ、当時の安達先生を思い、偲び、自己反省の糧としている。
 昭和二十七年、ふとしたことから、安達先生の専門の植物学の御指導を頂いたのであるが、それ以来十有余年、必ず元日には年賀状をくれてくれるのである。そのわずか一日の御指導でお逢いしたとき、十三年間のあのはげしい空白時代を経ながらも、恰もそれが毎日、毎日、それこそ丁重にご指導をうけているような感を覚える。安達校長先生はこのような方であった。
 その頃既に出来ていた現在の公園のテニスコートは日曜日ともなるとなかなか盛況であった。公園に出かけるたびにその風景にみとれていたがその常連の中に担任の瀬下宥弘先生が居た。フォームはあまりきれいではなかったが相当うまいらしかった、もっとも沼中の庭球部長をしていたのだから至極当然のことであろうが、とにかく上手だった。「トンちゃん」これが先輩から後輩へと云いつがれていた瀬下先生のアダ名であった。
 瀬下先生には、二年、三年と二年間担任して頂いたが三年生の時、母が病気のため前橋市の広瀬川のほとりの神田病院(?)に入院していたので日曜日に病気見舞いに出かけた。丁度その時群馬女子師範に在学中の姪も見舞いに来ていて、見舞いも終り汽車の時間にもなったので途中まで一しょに帰ろうというわけで連れだって病院を出かけ街を歩いていた。前方から見たことのあるような人が歩いてくるなあーと思いながら次第に近づいてみると、サアー大変、担任の瀬下先生だったので、生きた心地はしなかった。今の高校生の方々にはこの時の私の心はとうてい理解出来ないであろうと思う。前にも述べたようになにしろ「女」の人と一しょに歩いているということだけで、コッピドク忠告される位だから、ましてや先生ともなればと思うと、せっぱつまったぎりぎりの苦しみと不安だけが全身をつつんでしまいどうしてよいか何がなんだかわけがわからなくなってしまった。……とに角、姪から瀬下先生へ手紙で事情を説明することにして帰った。月曜日、火曜日と、先生にいつ呼び出されて最後の判決を下されるかと不安におののきながらの幾日間かをすごした頃、私が教室の掃除当番の時、先生が指導に回ってきながら何気ない調子で河合″おふくろさんの病気はどうだい!たったこれだけの言葉だったが、今までの死の苦しみの幾日問をすっかり忘れさせ神様のように見えてしまった。瀬下先生はこういう先生であった。           
 (新治村社教主事)

(「沼高七〇年史」 第4部 沼田高校の時代 第5章  当代の学校長 p.592より)
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