戦後の野球部
昭二十六、高三回卒 松井 三郎
昭和二十一年の春、人間ローラーによって麦畑が校庭らしきものになり、グランドが整備されると間もなく、軟式野球部が発足した。
四年生、五年生中心のチームが結成された。そして戦後初の対外試合は、沼田国民学校の西校庭で行われた対渋中戦であった。昭和二十一年九月二十一日(土)午後二時頃からの試合であったが、当時珍しい対外試合だったので、全校生徒が応援に強制的に狩り出された。石山、小島などの応援団長は、羽織、袴に、日の丸入りの扇子を持って蛮声を張り上げた。先生方も殆んど一緒に応援に馳けつけた。
試合は一点差を争うシーソーゲームとなり、三対三の同点のまま九回裏を迎えた。打者四年の伊坂中堅手、二球ポールの後、三球目の好球を逃さず打てばこれが、センターオーバーの大飛球、渋中のセンター懸命にバックしたが、打球は意外に伸びて、からたちの柵に飛び込んだ。伊坂選手は、勇躍ホームイン、サヨナラホーマーとなった。ところが、この時渋中ペンチから抗議があって、今のはワンバウンドで柵に入ったから二塁打と言うことになり、それが認められたため、応援団が承知せず、グランドになだれこんだ。両校の教師も激昂するもの、慰める者で試合は大混乱後日再試合ということで、この試合はノーゲームになった。
再試合十月四日は敷島球場で行われ、雨降りの悪天候であったが、結局沼中が七A対三で勝ち、十月十日同じく敷島球場伊勢崎商業を十対三と連破、翌十月十一日準決勝で桐生工業を一A対○で退け、意気大いにあがった。ダブルヘッダーで決勝は同日午後桐生中学と対戦したが、武運つたなく三対一で惜敗した。しかしこの時の学校中の盛り上りは、大したものであった。それがきっかけとなって硬式野球部の復活が叫ばれ、甲子園への夢につながった。
昭和二十一年の十二月、小雪がちらつき、谷川颪が吹きつける頃、早稲田大学野球部選手三名が、コーチに招かれた。当時名選手の誉高かった岡本投手とバッテリーを組んでいた中村捕手、頴川二塁手、鶴田三塁手であった。三日間のコーチであったが、実に厳しい訓練で、最初三十人以上いた筈の部員が、最後は半数に減っていた。軟式野球しか知らぬものに硬式は辛かった。コーチは相手の胸を目掛けて石のような硬球を力一杯叩きつけろと言った。相手の胸を射抜くつもりで投げろとも言った。しかし我々の手は、みな内出血状態で真赤になって、二、三糎ぐらいはれ上っていた。三人のコーチは、我々のグラブのアンコを完全に抜いてしまった。そして掌の処は革二枚だけにした。
そして、十米足らずの間隔で、力一杯投げ合わせた。そして少しでも加減すると、三人のコーチがそこに来て代り、猛烈な球を投げ返した。未熟な我々には、突指せずに取るのがせい一杯であった。歯を喰いしばり、涙を押えて、辛棒した。勿論、キャッチボール、ランニングは序の口で、この後、猛烈なノックが飛んだ。恐しがって、トンネルでもすれば、一歩ずつ前進させられた。全く命がけであった。外野のノックは、中村コーチがされたが、一度グラブに触れた球を落すと、グラブを脱がされて、痛烈なライナーを素手で捕らされた。素手で取るまでは、二度とグラブをはめさせないのである。
これほどの猛練習を経て翌年初めて公式戦に出場した。昭和二十二年七月二十五日敷島球場において、伊勢崎商業と対戦、13対4で敗退した。当時の沼中選手は純真で熱心ではあったが、野球を知らなかった。そして初めて大きな球場で試合するので、すっかり上ってしまい実力は半分も出せなかった。
(沼高教諭 *)
(「沼高七〇年史」 第4部 沼田高校の時代 第2章 生徒会誕生期とその後のクラブ活動 p.739より)